| 『すべての出会いに感謝』
安平町立安平小学校長 齊 藤 茂
不出来な人間には相応しい社会人としての出発だったかも知れません。教師に本当になりたかったのかどうかさえ、正直、今となってはわかりませんが、何となく採用試験を受験し、見事に不合格となりました。それでよかったんだと今なら言えますが、その頃は大変だったのです。
幸い、学校事務職員として道立追分高校が私の社会人としての最初の職場となりました。
私は運が良かったのだと心から思っています。教員採用試験を突破することの大変さを知ることが出来たことは勿論のことですが、それ以上に、事務職員の目から見た学校教師の姿は極めて客観性があったようで、「この人は教師をやめた方がいい」という確信にも近い教師としての理想の姿を、何となくですが思い描くことが出来たようです。
採用試験に合格するまで5年の月日を要しましたが、この期間は人間としても未熟だった私には丁度良い人間修行の時間だったかも知れません。
バドミントンというスポーツを通して高校生と触れ合い、一緒に汗をかき、語り合ったりすることが出来ました。年齢も近かったから結構本音で教師のこと、親のこと、友達のこと等、話してくれる生徒達から学んだことは、今日まで、私の教職の中で活きていることを実感することが出来ます。
教師として最初に赴任したのが宗谷管内礼文町立香深井小学校でした。正直びっくりしましたが、妻が快諾してくれたので不安は露程でもなく、複式3学級の小さな学校には、汚れなき童達がおり、教師の頑張りには無条件で支援してくれる地域の大人達がおりました。礼文には5年間おりましたが、毎年3回、指導主事を迎えての授業研究を始め、厳しい教頭先生からは私の授業をいつも罵倒して頂きました。まさに私の教師としての原点だったことを、今は「何と運のいい教師人生だったろう。」と懐かしく思い起こすことができます。
その後の教師生活は、悲しく、すさまじく、楽しかったようです。白老町立萩野小、苫小牧市立緑小・明野小学校と児童数千人規模の学校に15年、その後管理職として、鵡川町立田浦小、早来町立安平小、鵡川町立花岡小、虻田(洞爺湖)町立花和小、そして安平町立安平小学校で10校目となりますが、正直、よくやってこられたものだと思います。
数え切れないトラウマが頭を過って眠れない夜もありましたが、今は、『教師が安心して子どもと真剣に向き合うことのできる環境整備が最大の使命』という思いを貫くために、残り少ない教職生活を心残りのないよう過ごしたいと考えています。人は一人では何も出来ないもの、その意味で素晴らしい出会いに心から感謝しています。ありがとうございました。
『生かされて』
伊達市立星の丘小学校長 藤 田 咲 美
室蘭市、登別市、伊達市、そして旧洞爺村の三市一村で、教職の道を進んできました。子ども、家族、地域の方々、そして職場の人々一と、実に多くの人と出会うことが出来ました。そのことが自身の血になり肉になっているのだと思っています。
知利別小学校からスタートした室蘭時代は、組合員であることに誇りを持っていて、何もかもが楽しい毎日。学級経営が面白く、すばらしい先輩が多かった国語教育にはまったものです。教材を深く読み取ることで見えてくる世界、音声化させることで全員の理解がより効果的になるという実践研究、どれをとっても私の礎になるものでした。
当時はどこの学校にもスペシャリストがいて、真似ぶことが出来ました。校内研修では口角沫を飛ばすの状況ですから、真剣に参加せざるを得なかったんですね。どんなことでもアドバイスをいただけた時代です。パソコンやワープロが主流になっても、職員室での話題が豊富で、いい風土があったように思います。
ある日、松尾校長先生にお誘いいただいて、先輩女性教職員の集まりに参加することになりました。きらきら輝いている皆さんの考えや実践をお聞きして、すごいなとは思ったものの、自分の生き方に引き寄せることはありませんでした。
主人の病の発覚、看護、そして葬送と、どん底に落ちていた時に言葉で言い表せないほど、周りの人たちに手を差し伸べていただきました。自分は一人ではないということ、待っている子どもがいることをどんなに心強く聞いたことでしょう。それでも、室蘭にいて同じ風景を見ることの辛さから逃れるように、伊達に異動したのです。
それから青陵の学習会に足を運び始めたのです。同窓会の学習会で、平川先生の講義を受ける機会をいただき、論文の書き方や、教育情勢のとらえ方と経営について学びました。諸先輩のお話を聞く機会が多くなって、教師として、人としての姿勢を教わることが出来ました。戸惑いの中にいるとき、いちいの会の先輩が、手を取って導いてくださったのです。
教頭になったとき、二人の力ではない。先輩や周りの人たちが力を貸してくださった」と、あらためてお聞きしました。けして自分が管理職に相応しいとは思っていませんから、嬉しいお話でした。後継者育成と言ったときに、最初から「力」のある人なんていない。どう育てるかなんだという持論の根拠にしています。お返しをしなければならないのに、なかなか人を育てられないまま去っていくことは心残りですが・・・。
人は一人では生きていけない。人との出会いによって、いろいろなチャンスをいただき、輪を広げて生きる。それがもっとも苦手な子ども達に、味わわせられる教育を最後まで貫きたいものです。
『振り返ってみれば・・・・』
室蘭市立本輪西小学校長 能代谷 功
初任の勤務校がなかなか決まらず希望寮で待機していた私に、洞爺村の大原小学校に決まったとの電話が入ったのは、昭和47年3月の末。
早速、翌々日には室蘭から洞爺湖温泉行きのバスに乗った。洞爺湖温泉で倶知安行きに乗り換え、大原へ。バスは洞爺湖畔から武四郎を上り、高台の230号線に出る。その国道沿いに大原小学校があった。今では遠い感じはしないが、その時は後志まで来てしまったかと思う程に遠く感じた。
3・4年生の複式学級。12名の児童の担任として、教員生活が始まった。教育実習の経験のみ、複式学級の授業は見たこともなかった。指導主事あがりの校長は、国語と算数の授業を2時間ずつ3日間、自分が指導するからと、参観させてくれた。
毎日の教材研究はわたり・ずらしを考え、間接指導時の課題づくり。そして、週末には週案作りなどで忙しく、充実した毎日を過ごしたのが懐かしい。
子どもたちは先生の子どもを除き、みな農家の子どもたち。たくましさがあった。教え方がまずくても、どこからも苦情はこなかった。大らかな時代だった。
でも、僻地は僻地。店一軒ないところでの暮らしは淋しい。そのような中で、秋に大滝の方に研修で来ていた研究室の教官や後輩が来校し、激励してくれたことは忘れることができない思い出である。
その頃は3年僻地で頑張れば、次は利便地へということになっていたと思う。その後、白老の虎杖小、室蘭の高砂・大和・中島・東園で一般教諭として勤務。そして早来安平で教頭、虻田の花和・壮瞥、室蘭の本輪西で校長として各3年勤めてきた。過ぎてしまえばあっという間の38年だった。
また、ありがたかったことは転勤していく先々の学校には、必ず同窓の先輩や後輩が何名かいたことである。力不足の私に、いろいろと指導・支援をしていただいことも忘れられない。
私が青陵会の歓迎会・忘年会・送別会などに、顔を出させていただくようになったのは、校長になってからのごく短い期間。もちろん同じ市町村に同窓の先輩がおり、お世話になっていたが、なかなか足が向かなかったことを心苦しく思っている。
今、勤務している学校にも同窓の若い先生がいる。幸いみな溌刺とした仕事ぶりで、同窓として頼もしく、うれしく思う。でも、なかなか青陵会には足が向かない。私自身もそうだったが、残念なことである。
そして、今、岩見沢分校が完全に音・美・体の新課程の学生だけになったとのこと。今後の同窓会の方向も、「親睦と資質の向上」に変更したとのこと。これまでとは雰囲気も違ってくるだろうが、幅広く多くの同窓生が参加しやすくすることは良いことと思う。ますますの会の発展を期待しているところです。
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